2021年07月05日

知って損なし!「児玉ケーブル」

こんにちは。
6年近く前から使っているiPhone6sがいい加減寿命を迎えそうです。
メールチェックしただけで、バッテリーが10%程も減るようになってしまいました。
あぁ…


さてみなさん、児玉源太郎という偉人をご存じでしょうか。
明治期に活躍した陸軍軍人で、たいへん頭の切れる人物でした。
特に司馬遼太郎氏の著書等の影響で、日露戦争時の活躍がよく知られていると思います。旅順要塞を攻めあぐねる乃木第三軍に二八サンチ砲(大砲)を送ることを決めて、二〇三高地陥落に貢献しました。
しかし、児玉元帥の最大の功労は、戦争を見越して海底ケーブルを敷いたことである、と私は思います。

古代から現代まで、戦争において必須で重要なのは「情報」です。
敵味方の戦力や状況が分からなければ作戦の立てようがありません。どんなに強力な武器や装備を持っていても、場合によっては全く活かせず無意味なものになってしまう訳です。
児玉元帥は西南戦争の時の経験から、情報の確保の重要性を強く感じていたのです。
当時、日本も長崎〜上海、長崎〜ウラジオストク、呼子〜釜山の間にそれぞれ海底ケーブルが通っていました。このケーブルを管理し運営する会社は、大北電信会社といい、社名は日本名ですが実態は北欧の会社でした。
児玉元帥は日清戦争後、外国企業(特にロシアに近い)が管理・運営するケーブルを利用していては有事の際に通信を傍受されたり、ケーブル事態を切断され情報が遮断されるなど、不利になるのではないかと考えた訳です。不利になるならまだしも、戦争に負けるような事になれば国が国でなくなってしまうかもしれないのです。
よって、完全に日本国企業による日本国産のケーブルを敷設する必要があり、壮大な事業を開始しました。

まずはケーブルを敷くための船をイギリスに発注するところから始めました。
欧米諸国からは「日本にケーブルを引く技術などある訳がない」と馬鹿にされていましたが、やってのけちゃったんですねぇ〜。
明治30年には九州・那覇・石垣島・台湾ルートに海底ケーブルを敷設完了しました。
しかも、国外への情報漏洩を防ぐ為に、お雇い外国人を起用せず、工員は日本人のみ。
完全純国産海底ケーブルという訳です。

この当時、欧米諸国でも長距離の海底ケーブルを敷設するのは難しい事でした。
それを、初めて着手し、技術面でも欧米には及ばないと思っていた日本が、日本人の力のみで完成させてしまった技術力に、欧米諸国は驚き、驚異的に感じたそうです。
ざわ……ざわ……

この海底ケーブル、通称「児玉ケーブル」は、日露戦争中に大いに役立ちました。
特に有名な例は、日本海海戦時に『信濃丸』がロシアのバルチック艦隊を発見した際に打電した、「敵ノ第二艦隊見ユ」という一報でしょうか。
日本海海戦時の打電文は、児玉元帥が指揮し敷設された海底ケーブルと陸路にあるケーブルを経由して、東京の大本営に伝わりました。情報伝達の迅速さが海戦勝利の理由の一つなのです。
この辺りの話題は掘り下げると話が広がりすぎてキリがないので、割愛しますね。
興味を持たれた方は検索してみてくださいね。

明治後期に純国産の海底ケーブル敷設に成功した日本ですが、昭和初期になると無装荷ケーブルという多重通信に強いケーブルを開発します。
更に、昭和中期になると光ケーブルを利用するようになるのですが、日本はこの技術において世界一位になりました。
現代の我々がインターネットを快適に利用できるのは、通信ケーブルの分野の先人たちの努力と技術力があってこそなのですね。
特に日本がこの分野で世界一に輝いたのは、児玉源太郎が海底ケーブル敷設させたことが始まりだと言っても過言ではないでしょう。


割愛して書いたつもりが長くなってしまいました…
一宮支店 U
posted by 正木浩二 at 11:05| Comment(0) | 豆知識

2021年05月25日

ご注意ください、感染症と…

こんにちは。
先日、一家揃ってノロウイルスに感染してしまいました。
子供が保育所から貰ってきて、あっという間に私も主人も感染。猛烈な嘔吐に苦しめられました…
皆様、感染症対策はしっかりと、お気を付けくださいね。

さて、新型コロナウイルスはいまだ収束が見えず国民をいろんな面で苦しめていますが、昔から日本人を苦しめてきた伝染病や感染症と思われていた病気があります。
「脚気」というのですが、お若い方はご存知でしょうか?
ビタミンB₁欠乏症ともいい、その名の通り体内のビタミンB₁が欠乏して起こる疾病です。
重症になると命に係わるので侮れません。
ビタミンB₁を含む食品を摂取する事で予防が出来ます。
先述した通り、この疾病は日本人を苦しめてきました。古くは奈良時代には脚気の症状が記述されているらしいです。
日本人の主食は米です。
米は白米の状態だとビタミンB₁を殆ど含みません。
精米した白米の食べられる一定以上の身分の人が多く罹患していました。
これが江戸時代になると罹患者はぐんと増えました。精米技術が発達し、玄米ではなく白米が食べられる率が増えたためです。
また、参勤交代で江戸に滞在している武士(役人)も白米を食べます。すると、やはり体内のビタミンB₁が欠乏し、脚気を引き起こすのです。しかし、地元に帰って今まで通りの食生活を送るようになると、脚気の症状が回復した人が多くいました。
なので、「江戸患い」などとも呼ばれていたようですね。

さて、更に脚気に苦しめられたのは明治時代になってからです。
明治期には大きな戦争が二つありました。
明治維新後に西洋化された軍隊。食事は西洋化された訳ではなく、主食は変わらず白米でした。(たまにパンも出ましたが不人気でした…)
この時代、まだ地方では玄米や麦飯が主流であり、白米は滅多に口に出来ないものでした。それが軍では毎食食べられます。なので、志願兵も徴兵された兵たちも皆、白米をモリモリ食べます。平時も戦時も。
もう皆さんお分かりですね。脚気罹患者が膨大に出ました。
特に階級の低い兵は、給金を貯めるために食事内容をケチっていた事も罹患者の多い要因の一つです。
ビタミンが発見されたのが約100年前なので、当然といえば当然ですが、病気の原因は不明でした。
伝染病説、感染症説、西洋では殆どみられない為に風土病説など、様々な説が唱えられました。
海軍軍医が食事が原因ではないかと唱え、海軍内で改革・改善に取り組みました。
ただ、この時はタンパク質不足が原因と考えられたのですが、パンと肉中心の食事に変更し、結果的に罹患者軽減に成功しました。小麦にも肉にもビタミンB₁が多く含まれていますからね。
しかし、陸軍ではこのような改革は行われませんでした。軍医たちが伝染病説推しだったんですね。
結果、日露戦争では戦死者よりも脚気による死者が上回ってしまいました。大損害です。
ビタミンが発見され、研究も進み、脚気の原因がビタミンB₁であると分かると、罹患者は減っていきました。
現代では滅多に罹らない病気になりました。
しかし、偏った食事を続けていると罹る確率が上がりますので、くれぐれもバランスよく食事を摂ってくださいね。

では。


かも店 ノロ感染で食事が満足に摂れなかったU
posted by 正木浩二 at 17:10| Comment(0) | 豆知識

2019年06月03日

今日は何がファイヤーした日?

こんにちは。
暑いですね。水不足が心配ですが、梅雨に入って雨が続くのもジメジメするのでちょっと嫌ですね(^^;)

さて、今日は織田信長が本能寺でファイヤーした日だと思ったら昨日(6/2)でしたし、
あれ?今日は何があった日だっけと日付で検索したら、
大阪夏の陣で大阪城がファイヤーした日らしい…と思ったらそれは新暦に直された日付で旧暦だと5/7の出来事らしいです。
じゃぁ、いったい旧暦の6/3は何が起こった日だったのよ?!と躍起なって調べたら、
浦賀湾に黒船が来航した日らしいです。

ファイヤーしてませんね。

ただ、この黒船来航を受けて日本国内の攘夷論が高まり、翌年の日米和親条約締結から更に佐幕倒幕に分かれての内乱(内戦)が起こった「幕末」になる事を考えると、
ある意味ファイヤー(大炎上)するに至った出来事といえますね〜。


地元民は黒船を恐れるどころか大フィーバーしたらしい
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タグ:歴史
posted by 正木浩二 at 16:34| Comment(0) | 豆知識

2019年05月13日

竹酔日

こんにちは。
もう暦の上では夏、いや、気温も既に夏のようですね。

旧暦の5月13日は『竹酔日』といいます。
『竹酔日』とは、この日は竹が酒に酔った状態になるので、移植されたことに気付かずよく活着する。という意味のものです。
どうも昔の中国の俗説のようですね。
竜生日。竹植える日。とも言うそうです。

現代、特に樹木や花に普段から触れていない人からすると馴染みのない言葉ですね。
私は植物にあまり興味がないので知りませんでした!
中国から伝わった俗説ということもあり、昔の方が馴染みがあったのかも知れませんが、どうやら松尾芭蕉も『竹酔日』を季語に俳句を詠んでいるらしいのです。
松尾芭蕉が選んだ言葉が竹酔日なのか竹植える日なのかはよく分かりませんので、興味のある方は検索してみてください(^ω^)


旧暦なので正確には今日の5月13日ではないのですが、竹が酔う日という発想が面白かったので(^^)
尚、新暦にすると6月15日になります(多分)



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posted by 正木浩二 at 16:51| Comment(0) | 豆知識

2019年02月21日

道路上の橋

こんにちは。
前回、香川の民話についてお話しましたが、今回はちょっと変わったスポットについてお話します。
知る人ぞ知る…?なスポットです。

『八雲橋』というもの、ご存知でしょうか。
橋といえば、普通は川や海にかかるものですが、この『八雲橋』は道路上にあります。
歩道橋の事ではありませんよ。道路に平行に置かれているのです。
場所は、中央通りの兵庫町商店街のアーケードのある交差点の中にあります。

この『八雲橋』、元々は明治時代に玉藻城のお堀にかかっていたもののようです。
当時、橋の向こう側に出雲大社の分社が存在していたようで、道をショートカットする為にかけられたそうです。和歌の「出雲」にかかる枕詞の「八雲たつ」になぞらえ、「出雲大社にかかる橋」という事で『八雲橋』と名付けられたとか。お洒落〜。
時代が進むにつれ、道路事情が変わり、明治の終わり頃に『八雲橋』はお堀と共に役目を終えました。
が、100年近く経って柱が一本発掘。モニュメントとして再構し、今に至る訳ですね。
なんやかんや今は無き玉藻城の記憶の一部なんですねぇ。

交差点の途中にありますし、そんなに大きくも派手でもない『八雲橋』は、ほとんどの人に気付かれずに通り過ぎて行ってしまいます。地元民でも知らない人も多いようです。
私も最近まで知りませんでした。またひとつ勉強になりました!


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posted by 正木浩二 at 16:45| Comment(0) | 豆知識