2021年10月20日

バロン西と愛馬ウラヌス号

こんにちは。
天高く馬肥ゆる秋と言いますが、すっかり秋めいてきましたね。というより寒い!
この記事はもっと早い時期に書こうと思ってタイミングを逃し続けてしまったものですが、せっかくなので書きます。

東京オリンピック・パラリンピックはご覧になりましたか?
様々な競技で熱戦が繰り広げられましたね。
みなさんはどの競技が面白かったですか?私は「馬術」です!
野球もソフトボールも面白かったのですが、今大会は馬術ですかねぇ。
約90年振りの日本人メダリスト誕生の期待がかかっていましたから。

現在、馬術競技において日本人で唯一のメダリストは、「バロン西」こと西竹一大佐です。
彼は愛馬のウラヌス号と共に、1932年のロサンゼルスオリンピックで金メダルを獲得しました。
ウラヌスは、西氏が欧州で買い付けた体躯の大きな馬です。乗りこなすのは難しいと言われた馬でしたが、西氏とは相性が良かった様で、生涯の友となりました。

さて、馬術競技は昭和中期頃まで、男性しか公式な大会には出場できませんでした。
馬術を日ごろから嗜む、或いは専門的に習い続けるには、それなりのお金を要しました。選手は主に軍人か貴族出身者で、一般人(一般階級)の選手は稀でした。
それが昭和中期になって広く門扉が開かれる事になります。女子選手も公式大会に出場できる様になりました。
馬術は現在のオリンピック競技の中で唯一男女の区別がない競技です。
また、選手生命も長いですので、ベテラン選手のいぶし銀の(?)テクニックを見る事ができるのです。
…と言っても、やはりお金がかかる&場所が限られる競技ですので、世界的に見ると軍関係者や貴族出身の選手が多いです。
今年の東京オリンピックでは、馬術障害にて日本人選手が第4位に入賞しました。
メダル獲得まであと一歩でした…!
馬術は欧州勢が強いですね。しかし、日本人もメダルを十分狙える事が示せましたし、次回の大会に期待が募ります。
お馬さんと共にメダル授与される姿が見たい〜!

さてさて、西氏は昭和19年に硫黄島に派遣され、翌20年に戦死しています。
また、愛馬ウラヌス号も西氏の後を追う様に死亡しました。
西氏が形見話さず持ち歩いていたウラヌス号のたてがみは、平成に入ってからアメリカで発見され、北海道の歴史民俗資料館に寄贈されました。
西氏愛用の乗馬用鞭は今年7月、子孫の元へ返還されたそうです。

普段お目にかかる機会が少ない馬術ですが、人馬一体の演技はとても面白く興味深い競技です。
ゴールしたのち、選手が競技馬を労わる姿は心が和みます。


余談ですが、西氏のウエストを絞って細身に仕立てた軍服姿は、はちゃめちゃに格好良いんですよね〜!そりゃモテるわ…
(※士官の軍服は自前でした)


かも店 U
posted by 正木浩二 at 15:11| Comment(0) | 豆知識

2021年10月13日

お久しぶりです

何年ぶりの投稿でしょうか。ご無沙汰しております。かも店のFきちです。
さて、あたかも定期的に投稿していたかのように、本題に入りたいと思います。
そう、数学の話です。

ご存知の方も多いと思いますが、1995年イギリスの数学者:アンドリュー・ワイルズによって、フェルマーの最終定理が証明されました。360年証明することの出来なかった数学の世界での大難問でした。これにより、世間では数学の未解決問題があたかも全て証明されたかのような空気が漂いましたが、全くそんなことはありません。数学にはまだまだ未解決問題があるのです。

前置きが長くなりましたが、今日はその中から一つ取り上げたいと思います。

それは、皆知ってるゴールドバッハ予想です。(リーマン予想の次くらいに有名かな?)

ゴールドバッハ予想とは「4 以上の偶数は、必ず二つの素数の和で表すことができるだろう」というのがゴールドバッハ予想です。
例として、いくつか式をあげてみます。
4 = 2+2
6 = 3+3
8 = 3+5
10 = 5+5 = 3+7
12 = 5+7
14 = 3+11 = 7+7
非常にシンプルで中学生くらいでも十分理解できますよね。しかし、この問題も250年以上解決されていません。なぜ証明が難しいかというと、数の上限が限りなくあるからですよね。う〜ん。全ての偶数ってどこまでなんでしょう。
ちなみに、4000000000000000000(400京) 以下の偶数で、この予想が成立することがコンピュータで確認されています。

では、数の上限ってどこまであるんでしょう。皆さん子供のころから親しみのある大きな数といえば、無量大数ですね。10の68乗を意味する桁の限界と言われています。気が遠くなりそうな作業ですね。
しかし、近い将来どこかの数学者が証明すると信じています!!
(ちなみに、仏教の世界では不可説不可説転というのがあります。是非とも調べてみてください)

この上の数を作ってみたい かも店Fきち
posted by 正木浩二 at 14:57| Comment(0) | 豆知識

2021年10月12日

郷土の偉人B 中野武営

こんにちは。
お久しぶりの投稿になってしまいました。
前回の投稿から今日までの間に、またかも店に戻ってまいりました。笑。


さて、郷土の偉人第三段は、中野武営(ぶえい)さんです!

皆さんは、自分の生まれ育った故郷がいつどんな経緯で成立したのか、ご存知ですか?
郷土の偉人シリーズ第3弾は、香川県を香川県にした人、中野武営を紹介します。

さて、香川県はどのようにして現在の香川県になったのでしょうか。
明治の初期、廃藩置県が行われたことは学校で習った通りです。高松藩は高松県に、丸亀藩は丸亀県になりました。この二つの県が合併し、初めて「香川県」になりました。
ところが、2年後には廃止され、徳島県に編入されます。その2年後には徳島県と分離し、再び香川県となります。
更にその翌年、今度は愛媛県に編入されてしまうのです。

この独立と編入を繰り返して忙しい香川県を、完全に香川県として独立させたのが、中野武営さんです。
武営さんは、政治家や実業家として活躍していました。
地元香川県と東京の要人らと連絡と取りつつ分県運動に奔走し、香川県を独立させる事に成功したのです。
この功績から、「香川県独立の父」と呼ばれています。
もし武営さんらの働きがなければ、香川県は現在存在していなかったかもしれませんし、形が違ったかもしれませんね。
因みに、香川県は47都道府県中47番目、つまり最後に完成した県らしいです。

武営さんは香川県の銀行や電力会社などの設立に関わったり、東京でも鉄道会社や株取引所などの社長や理事に就任するなど、実業家・財界人として活躍しました。
最近話題の渋沢栄一氏とも交流があったそうですよ。

他にもいろいろな事に貢献された方なので、詳しく知りたい方は是非検索してみてくださいね。


かも店 U
posted by 正木浩二 at 16:10| Comment(0) | 豆知識

2021年07月30日

郷土の偉人A 久米通賢

こんにちは。
郷土の偉人シリーズ第二弾は、久米通賢(くめつうけん)です!

皆さま、ご存じでしょうか?
久米通賢氏は江戸時代後期の学者・発明家です。
この人は前回紹介した山田兼松さんの記事でも書いた、塩田に所縁の深い人です。
久米通賢氏が40代の頃、高松藩主に才能を見込まれ、塩田開発事業に取り組むことになります。坂出の東大浜と西大浜に塩田を作りました。
この塩田開発事業、高松藩が財政難だった為に、再建することを目的に始められました。が、何せ財政難ですので、事業の途中で工事資金が足りなくなってしまったんですね…
しかし、久米氏が資材を投げ打ち、工事を継続、完成させたのです。
並々ならぬ情熱だ…!
この塩田のおかげで、塩生産量は日本国全体の約半分を占め、高松藩を潤わせ、財政難から見事に脱却したのです。
高松藩主が建てた久米通賢氏を称える石碑が、坂出に現在も残っています。

また、久米氏はあの伊能忠敬よりも早く測量を行ったことが記録に残っています。これも高松藩の事業で、久米氏が20代の頃でした。
そもそも久米氏は天文学と測量学を修めた人なので、この事業は専門分野だった訳です。オリジナルの測量器などを用いて測量し、天体観測を行いつつ、地図を完成させました。
この時作成された地図は、讃岐国最古の地図として残っているそうです。ちょっと見てみたい!
伊能忠敬が測量で讃岐国を訪れたのがこの2年後で、この測量にも久米氏は参加しています。

他にも久米氏は、武器の改良に携わったり開発したりとまぁ、多才な実績と功績を残されています。
坂出市には銅像があり、毎年「さかいで塩まつり」という久米氏と塩業を称えるお祭りも行われています。
久米氏の生家は「四国村」に移築、展示されております。
一度訪れたことがあるのですが、なかなか広い間取りでしたよ。200年以上前であの間取りと面積だと、そこそこ裕福なお家だったんではないでしょうか?(明治大正頃に改築された可能性あり)

「塩田の父」「讃岐のエジソン」と称される久米通賢氏。
功績の割りに知名度が低いので、もっと知られると良いなぁと思いつつ投稿します。
興味を持たれた方は是非調べてみてはいかがでしょうか。面白い人ですよ(^〇^)


一宮支店 U
posted by 正木浩二 at 15:39| Comment(0) | 豆知識

2021年07月20日

郷土の偉人@ 山田兼松

こんにちは。毎日暑いですね。
これまでマニアックな記事をいくつも投稿してきましたが、どうせなら香川県に関係する話題を取り上げてみようと思いまして、『郷土の偉人』シリーズとして香川県出身・所縁のある人物を取り上げていこうかと思っております。
気長にお付き合いください〜。


さて、オリンピック開幕まであと4日。
今日は、当時最も金メダルに近かったと言われるマラソン選手、山田兼松さんをご紹介します。
この方は明治36年生まれで、坂出市出身です。
昭和3年のアムステルダムオリンピックに出場し、好成績を収めました。
塩田業者の家に生まれて、幼い頃より家業の手伝いをしていました。塩田というのは、現代の私たちが想像するよりも広範囲で、また浜辺を歩き走り回る必要性があり、自然と足腰のトレーニングが行えていた訳ですね。
大正9年のアントワープオリンピックで10000mの代表として出場した宇多津出身の選手が凱旋した際、マラソン大会が開かれ、坂出市民のマラソンへの関心が高まったそうです。山田兼松さんも影響された一人なのです。
なので、10代後半〜20歳になる頃に本格的にマラソンを始められたのですね。
塩田での仕事の後、夜には陸上のトレーニングを行い、出場したクロスカントリー大会で優勝します。
そして、翌年、オリンピックの予選会でも優勝し、代表の座を得ました。
オリンピック本番では、首位を独走してしましたが、練習中に痛めて完治しないままだった膝の激痛の為にスピードが落ち、4位でのゴールとなりました。
惜しくもメダルには届きませんでしたが、日本人初の入賞を果たしました。
また、ゴール間近までトップに居たため、当時「最も金メダルに近付いた」選手と言われました。
更に、タイムは2時間35分29秒で、それまでの最速記録だった金栗四三の2時間36分10秒を更新しました。
この山田兼松さんの偉業を称え、丸亀ハーフマラソンにて「山田兼松賞」が設けられています。

努力の人ですね。
功績の割りにあまり知られてない気がします。もったいない。
県内で陸上、特にマラソンに取り組む子供たちには、山田兼松さんのような存在は誇りと共に自信と目標になるのではないでしょうか。


次回は、塩田と絡めて久米通賢をご紹介します。


一宮支店 
長距離走は下位からじわじわ追い上げるタイプだったU
posted by 正木浩二 at 15:24| Comment(0) | 豆知識