これまでマニアックな記事をいくつも投稿してきましたが、どうせなら香川県に関係する話題を取り上げてみようと思いまして、『郷土の偉人』シリーズとして香川県出身・所縁のある人物を取り上げていこうかと思っております。
気長にお付き合いください〜。
さて、オリンピック開幕まであと4日。
今日は、当時最も金メダルに近かったと言われるマラソン選手、山田兼松さんをご紹介します。
この方は明治36年生まれで、坂出市出身です。
昭和3年のアムステルダムオリンピックに出場し、好成績を収めました。
塩田業者の家に生まれて、幼い頃より家業の手伝いをしていました。塩田というのは、現代の私たちが想像するよりも広範囲で、また浜辺を歩き走り回る必要性があり、自然と足腰のトレーニングが行えていた訳ですね。
大正9年のアントワープオリンピックで10000mの代表として出場した宇多津出身の選手が凱旋した際、マラソン大会が開かれ、坂出市民のマラソンへの関心が高まったそうです。山田兼松さんも影響された一人なのです。
なので、10代後半〜20歳になる頃に本格的にマラソンを始められたのですね。
塩田での仕事の後、夜には陸上のトレーニングを行い、出場したクロスカントリー大会で優勝します。
そして、翌年、オリンピックの予選会でも優勝し、代表の座を得ました。
オリンピック本番では、首位を独走してしましたが、練習中に痛めて完治しないままだった膝の激痛の為にスピードが落ち、4位でのゴールとなりました。
惜しくもメダルには届きませんでしたが、日本人初の入賞を果たしました。
また、ゴール間近までトップに居たため、当時「最も金メダルに近付いた」選手と言われました。
更に、タイムは2時間35分29秒で、それまでの最速記録だった金栗四三の2時間36分10秒を更新しました。
この山田兼松さんの偉業を称え、丸亀ハーフマラソンにて「山田兼松賞」が設けられています。
努力の人ですね。
功績の割りにあまり知られてない気がします。もったいない。
県内で陸上、特にマラソンに取り組む子供たちには、山田兼松さんのような存在は誇りと共に自信と目標になるのではないでしょうか。
次回は、塩田と絡めて久米通賢をご紹介します。
一宮支店
長距離走は下位からじわじわ追い上げるタイプだったU
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